興亜院と戦時中国調査
付刊行物所在目録
日本の中国占領地行政機構・興亜院の,業務の実態と調査活動の全貌を解明.「調査報告所在目録」を収録.
著者 本庄 比佐子, 内山 雅生, 久保 亨 編
刊行日 2002/11/28
ISBN 9784000228275
体裁 A5 ・ 上製 ・ カバー ・ 394頁
この本の内容 興亜院は,戦時日本の中国占領地における政策策定,経済開発,思想文化統制などを目的に設置され,4年足らずで消滅した国家機関である.本書は,未解明の部分が多いその占領地行政機構としての業務の実態と,大規模な調査活動の全貌・特質を明らかにする.所在の確認された報告書を網羅した「興亜院調査報告所在目録」を収録.
書評情報 歴史学研究 第779号(2003年9月) 史学雑誌 第112編第2号(2003年2月)
はじめに
編者
明治以降 1945年の敗戦に至る,いわゆる戦前戦中期に日本の政府・民間諸 機関は中国への経済的・政治的・軍事的進出, 侵略のために必要とされた各種 の調査を中国各地で行った. 日清修好条規締結 (1871年)から4年後の1875年 には早くも勧業寮が中国の物産調査のために職員を派遣し, 1879年には参謀本部が12名の将校を派遣して中国の兵制・軍備・地理などの調査にあたらせ ている。 日清戦争の結果領有した台湾では 「新領土」 の統治に資すべく、台湾総督府がまず旧慣調査に着手した。 日露戦争に勝利した日本は実質上政府の会 社と言うべき南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立して調査部を設け, 中国東北部 の経済開発のための調査や旧慣をはじめ各般の調査を行ったことはよく知ら れているところである. 満鉄はその後, 東北部から華北, 華中へと調査活動の 範囲を拡げ, 日中戦争中には,この時期に設立された東亜研究所や国策会社で ある北支那開発株式会社 中支那振興株式会社とともに, 華北・ 華中の占領地 における農村実態調査, 物資動員のための資源調査などに従事した.
こうした調査の成果をまとめた調査報告書あるいは調査資料は,日本の中国 認識を跡づけるための資料であるばかりでなく,政治・経済 地理など多方面 にわたって当時の中国の社会状況を知り得る資料である.ただ, 戦後、調査の 本来の意図ゆえに研究資料としての利用には否定的な状況があり,それは,例 えば,1939-44年に行われた華北農村慣行調査をめぐる議論に示されていると ころである。 すなわち, かつての調査参加者が彼ら自身の意図は 「純学問的」 であったとしたのに対し, 日本占領軍の権力を背景にした調査が真実を捉え得るかとの批判がなされたのである。
ところで,1970年代以降, 顕在化した文革の実情とその後の“社会主義の変 容”,すなわち改革開放政策の全面的展開という中国事情を前に、日本では、 戦後の中国近現代史研究のあり方が問われ,その中で,戦前の中国研究の再検 討も始まり,調査機関についても関係者へのインタビューや回顧録が出版され るようになった.また, 近現代中国社会の歴史的連続性を解明しようとする研 究状況が生まれ、戦前戦中期の調査資料についても,調査の背景, 資料の性格 を踏まえて批判的に利用するならば有用であると認識されるに至っている。 特 に、農村調査資料に関しては,当該農村の再調査が可能になり,旧調査資料と 併せての研究成果がアメリカや日本で出ている.
このような研究状況のなか, 1989年にわれわれのプロジェクトは発足した。 膨大な量の戦前戦中期の調査資料のうち利用されているのは満鉄の資料を中心 とした一部であり, 多岐にわたる内容をもつ各種の調査資料がもっと多角的に かつ有効に利用されてもよいのではないか、との考えに基づいていた。そこで, 調査資料の有効活用のために必要とされる, 各資料の内容, 性格と利用価値な ど,及び資料の所在を明らかにした解題つき総合目録の作成を目指したのであ る。その際,研究対象としては華北華中華南の中国本部についての調査資 料に限ることとした。 というのは,東北部については, 中兼和津次『旧満洲農 村社会経済構造の分析」 (1) が満洲国政府諸機関及び満鉄の実施した農村・農業 実態調査の資料の解題を行っていた.また,アジア経済研究所図書資料部編 「旧植民地関係機関刊行物総合目録』のシリーズ「南満州鉄道株式会社編」 「満 洲国・関東州編」「台湾編」 2)が, 所在目録として活用されていた。これらの目 録には,旧植民地に関する調査資料だけでなく、その諸機関による中国本部の 調査資料も含まれているが,中心は、言うまでもなく、旧植民地統治のための 当該地域に関する調査資料である。 中国本部に関しては多くの機関が調査を行 ってはいても、まとまったものはなかったので, 華北・ 華中華南における有 用な調査資料を研究対象としたのである。
当初は,メンバーがそれぞれの研究においていかに利用しているか、資料研究における問題点などについて議論を重ねた. そこに参加したメンバーと研究会における報告は以下の通りである(下記の文部省報告書に含まれるものは除く).
草野靖 「中国前近代社会経済史の研究と近代の経済調査」/曽田三郎 「外交史料館 所蔵の中国地方議会史料について」/奥村哲 「無錫農村に関する四つの調査」/吉田 法一 「戦前期日本人の中国認識 (1) 長野朗氏の三著作について」/久保亨 「支那 問題研究所の活動 戦時華北工業の実態調査を中心に」 / 夏井春喜 「日本に収蔵 されている土地関係文書の簡単な紹介とデータベース化について」/高橋孝助 「近 代初期の上海における日本人の営為幾つかの報告書 案内書に見る」/内山雅 生 「アメリカにおけるく中国研究の新たな潮流> と戦前期中国実態調査資料」/今井 駿 「神田正雄 『四川省綜覧』 『湖南省綜覧』 『広西省綜覧』 について」/西村成雄 「上田雅郎 『昭和五年天津情報』にみる中原大戦と張学良」/足立啓二 「中国近代史 認識の枠組みをめぐって」
1995年に至って,文部省科学研究費補助金による 「戦前期中国実態調査資 料の総合的研究」(研究代表者: 本庄)および三菱財団学術研究助成による 「戦前期中国調査資料の研究」(研究代表者: 本庄) の申請が採用されたことにより, 研 究会と併せて各地の機関, 図書館に散在する資料の所在調査を行うことができ た。 収集した資料のうち29点について解題を作成してサンプルとし, それま での研究と併せて文部省助成金の成果報告書にまとめた。 その内容は以下の通 りである.
曽田三郎「日清戦争直後の新開港・ 開市場を中心とする中国市場調査」/本庄比佐 子 「三五公司の福建調査について」/夏井春喜 「一九三〇年代の蘇州農村租桟 関係簿冊と 『申報』 記事に見られる恐慌」 / 奥村哲 「満鉄の華中農村調査をめぐっ て」/内山雅生 「日本占領下の華北農村における綿花栽培と ‘棉産改進会'」/久保亨 「『華北調査研究機関業績綜合調査』 に関する覚書」/川井伸一 「中国会社法の歴史 的検討序論」 / 坂野良吉 「中国政治をめぐる情報の質と政策決定との間田 中義一 蒋介石‘会談” を例として」/ 三谷孝 「戦前期日本の中国秘密結社について の調査」 / 解題
ところで、資料の所在調査を行った山口大学東亜経済研究所では、第一次大 戦に参戦した日本が山東に派遣した青島守備軍が戦中から直後の時期に山東各 地で行った調査書が多数あることに注目した. この例が示すように、戦前戦中 期に中国で調査を行った機関は実に多数にのぼり、先に触れた以外にも、早く
には農商務省,関東都督府があり、中国各地の日本人商業会議所と大阪など日 本の商工会議所,台湾銀行や日本銀行, 東亜同文会,そして本書のテーマである興亜院、などなどに及ぶ。だが,これら諸機関とその中国における調査活動 について我々の知識は不十分であり,それなくして我々が当初考えた解題つき 目録の作成も容易ではないことを認識するに至った.そこで, 調査機関につい ての知見を深めるべく,次の3氏をゲストに招き, 井村哲郎「戦前期中国に関 する日本の調査機関」, 松重充浩 「外務省外交史料館所蔵の興亜院関係史料に ついて」, 小池聖一 「外務省文書・外務省記録の生成と 『写』 の態様」 という 報告を聴くことができた。 こうして, 中国本部において最も集中的に調査が行 われた日中戦争時期に限定してみると, 先にも触れた諸機関のうち, 満鉄については井村哲郎『満鉄調査部』 (3)がまとめているが, 東亜研究所については関 係者の回想と記録があるのみで, 興亜院やその他の民間機関の調査活動につい ては研究が進んでいない,ということが明らかになった。とりわけ、日本の占 領地行政全般を統括すべく設置された機関であった興亜院については,その成 立事情に関する研究があるのみである.
以上のような経緯で,これまで研究の十分されていない興亜院を取り上げる ことになった次第である。 1999年度に日中友好会館の日中平和友好交流計画 歴史研究支援事業による助成申請(研究代表者: 内山)が採用となり、興亜院の調 査・研究組織および調査内容についての分析を進め、その間には柴田善雅氏か ら,興亜院と大蔵省との関係および同省にある関連資料について報告を伺った. 一方,興亜院の調査報告書の所在調査をしてその目録作成作業も行ってきた. この研究の中間報告として、2000年11月に東洋文庫においてシンポジウムを 開催した。それには中国から房建昌 (中国社会科学院中国辺疆史地研究中心), 陳正卿(上海市楷案館)の両氏を招いて報告をお願いした。本書に見られるよう な,中国に残された興亜院の資料を使って従来ほとんどなされていない問題に ついて実証的な研究報告をされたことは、我々にとって大きな収穫となった。
( 本庄比佐子 )
興亜院は数ある中国調査機関の中でも際だって特異な風貌を呈している。 まず第一に、それは総理大臣を総裁とし省庁並の権限を持つ純然たる国家機構 であった。民間の各種調査機関や政府の外郭団体的な地位にあった東亜研究所 などとは,この点が全く異なっている。 第二に,それは日中戦争の開始以降, 中国占領地行政を推進するために設置された侵略戦争遂行のための機構であっ また. 中国東北地域の鉄道経営と経済開発を軸とした国策会社だった満鉄に比べ ても,日中戦争とのかかわりは格段に深い。 後に詳しく述べるように、 興亜院 の実際の活動面でも支那派遣軍が重要な役割を果たしていた。 第三に,以上の ような条件の下, 短期間しか存在しなかったにもかかわらず, 興亜院は膨大な 人員を動員し多方面にわたる活動を展開した。その活動の一端が戦時中国の実 態調査である.
しかし,興亜院については, まだよく知られていないことが多い. 我々が本 書に結実した共同研究を組織した理由もそこにあった. なぜ不明な点が多いの か.それは存在期間が4年にも満たないほど短かったこと, 各省庁の出向者を 集め急遽設置されたものであったため寄合い所帯という性格を脱却できなかっ たこと, 戦後に業務を継承する官庁が存在しなかったこと, 以上のような事情 により史料が散逸したこと、そして戦時機構だったため資料の意図的な隠滅工 作さえ行われたと見られること, など, 研究の進展を阻む要因が幾重にも重な っていたためである.
とはいえ、興亜院に関する史料が全く残されていないわけではなく、同院の 調査報告書類は各地の大学図書館などに所蔵されており,外務省外交史料館・ 国立公文書館・防衛庁戦史室・財務省財政資料室・農林水産省農林水産政策研 究所などに若干の文書史料も保管されている. そうした史料に基づき, 興亜院 の成立過程については馬場明が詳細な研究をまとめ(4), その成立後の活動につ いては華北経済開発を中心に中村隆英が考察した(5), また興亜院の存在に言及
した他の主だった業績について触れておくと, 技術者の関わりという側面につ いて大淀昇一の研究があり,その「統合国策機関」という特質については古 川隆久の研究が触れている(さらに本書第一部に収録された柴田善雅論文は、 行政機構としての興亜院の実態を丹念に解明した。こうした先行研究を手がか りに興亜院とは何であったのか、基本的な問題の所在について整理してお くことにしたい。
興亜院の成立過程 成立の発端は, 1938年1月, 内閣の下に秘密に設けられていた第三委員会幹事会で提案された 「東亜事務局」設立構想にさかのぼる。 その構想によれば,内閣に設置される 「東亜事務局」は, 中国に於ける経済計 画の立案実施、各省庁の対中国政策の調整, 中国に設立された国策会社の監督 などに加え, 「満洲」 関係の行政実務全般の処理,中国及び 「満州」 関係の文 化事業の実務なども全て統轄的に担当する相当大規模な行政機構になるはずで あった (8) 内閣の第三委員会は、事実上, 企画院の機構の一部として動いた, とされる組織である。その企画院は,前年10月に内閣直属の総合的な行政機 構として発足したばかりの新官庁であり,統制経済をはじめとする戦時期の政 策立案全般に関し, 大きな権限を付与されていた。 そして「支那事変ニ関連シ 支那ニ於ケル経済ニ関スル重要事項」の審議を担当した第三委員会(創立当初 の委員長は企画院次長青木一男, 幹事には外務・大蔵 陸軍 海軍各省と企画 院の関係課長らが就いた)は,その後,中国占領地の経済運営に関する実質的 な政策決定機関としての役割を果たしていく (9) このような事情からすれば, 第三委員会幹事会が「東亜事務局」設立構想に込めた狙いは、中国・「満州」 に対する自らの経済政策をいっそう円滑に実施することにあったと考えられる。 一方,近衛文麿首相とその周囲を中心に、中国政策に関して強い権限を持つ官 庁を設置することによって軍の暴走を抑えようという企図も存在したと指摘さ れている (10)
その後,内閣法制局を中心に政策の調整が進められ、1938年3月初めには、 対支局と対支審議会を設ける法制局案がまとまった (1) 同案は対支局として
政務・経済・文化の三部からなる相当の規模を備えた機関を構想しており,そ の後実際に成立する興亜院と興亜委員会という体制の基本骨格が示された案に なっている。
しかし、先の企画院案, 並びにそれを基礎にまとめられた法制局案に対して は,対外政策を担当する外務省から強い異論が出された. 外務省は,新機構設 立がむしろ軍の影響力拡大と外務省の権限縮小につながることを恐れ、また交 戦状態に入っていたとはいえあくまで外国の一つである中国と日本が植民地 にしていた満洲とは, 根本的に区別して扱うべきだとの判断に立って,権限を 経済関係の事項だけに限定した「支那経済開発事務局」 を外務省の下に設置す るという対案までまとめ, 企画院案や法制局案に反対している(12) こうして 政府部内の意見調整に手間取り、 企画院の提案はすぐには具体化されなかった。 その後、徐州や武漢での戦闘後も中国の激しい抵抗が続き, 日本が戦争早期 終結の見通しを失っていく中で, 1938年夏から秋にかけ、改めて対華政策を 総合的に扱う新官庁の設置が問題になった。この段階で新官庁創設を改めて強 く主張したのが陸軍であった。 9月に陸軍省が提唱した 「対支院」 設立構想に よれば,同院は占領地域につくられた対日協力政権 (傀儡政権)への対応,経済 金融, 国策会社の監督, 文化工作, その他対華政策に関する一切の事務を包括 するものであり, 北京, 上海, 南京, 青島などには現地機関を置き, 当面は経 済関係事務に当たらせる, などとなっている。 中国侵略の推進拡大に向け陸海 軍以外の省庁の協力も得ながら、なおかつ軍部が外務省の拘束を受けずに対華 政策を推進していくためには,こうした機構の創設がもっとも有効だと陸軍首 脳は判断したのである(13) 当然, 外務省側は 「対支院」 設立構想に猛反対し, 宇垣一成外務大臣が抗議の辞職をする事態にまで発展した。 しかし「非常時」 を旗印に,省庁並の権限を備えた新機構を設置しようという「対支院」構想に 対しては,先に企画院案をまとめた第三委員会の少壮官僚たちからの賛同を含 め様々な立場から支持が寄せられ、ついに外務省も一歩退かざるを得なかった。 なおそうした支持勢力の一つに日本技術協会など技術者たちの団体も入ってい たことから、彼らの意向を反映し新官庁には技術部を設置することになっている(14)
最終的には1938年11月18日の閣議で官制案などが決定され, 枢密院の同 意を得た後 (15) 12月16日に正式に官制が公布された (16) こうして興亜院という名称の下、上記の陸軍案を基礎にした新たな対華行政機関が正式に発足した。 これにあわせて,興亜院につながる 「東亜事務局」 設立案を提起した内閣第三 委員会は発展的に解消されている (17) なお11月18日の閣議決定の際,興亜 院に対する軍の優位を規定した極秘の付帯閣議了解事項も通過した. 「軍事及 警備ニ関シ支那側関係機関ニ対シテ為ス指導ハ,陸海軍最高指揮官其ノ任務及 協定二基キテ之ヲ為スモノトス. 興亜院ノ指導八右ノ範囲外ニ於ケル政務ニ関 スルモノトス. ......興亜院連絡部ノ次長以下ノ職員ニハ, 必要アルトキハ, 現 地陸海軍司令部等ニ属スル適任者タル武官ヲシテモ之ヲ兼務セシムルコトヲ 得」 (18) これによって, 軍の暴走を抑えようとしたという近衛首相らの企図(前 述)は,ほとんどその意味を失ったと言うべきであろう。
興亜院の機構 東京の本院のほか, 北京 上海など中国各地に連絡部が4つと 出張所が1つ設けられ, それぞれに政務 経済・文化を扱う部局が設置された (次頁図参照)。 実際にそれぞれの部局の活動を担ったのは,本書所収の柴田論 文が具体的に明らかにしているとおり,大部分, 陸海軍や大蔵省 外務省など 他省庁からの出向者であった(19).
政務関係の部局, 本院で言えば政務部, 華北・ 華中の両連絡部の場合で言え ば政務局が担当した業務は, 「興亜院事務分掌規定」 (1938.12.16 施行)によれば, 「対支政策樹立,各部事務ノ連絡調整,支那新政権ニ対スル政治的協力,支那 ニ於ケル政治、経済及文化ニ関スル調査, 情報蒐集及啓発宣伝」 (同上第二~五 条)であった(20) 「傀儡政権」もしくは「偽政府」と呼ばれた対日協力政権関 係の工作の中枢を担ったわけであり,当然ながらここには軍の特務機関関係者 が多く配置された。 ただし後述するように, 政治工作については従来の軍特務 機関の活動と重複することが多く, 興亜院としての独自の活動はあまり見られ なかった.
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